昨日夕方に名古屋市街を車で通りかかると、デモの一群に遭遇しました。窓からその様子を眺めると「再稼働反対」とシュプレヒコールを繰り返しています。この脱原発デモはSNSなどを通じて拡大しているようです。

脱原発という概念を将来原発の無い日本を築こうというものなら、それは理解ができます。

日本の将来のエネルギー源として、原子力より火力・水力・太陽光を選択する自由が国民にはあります。

しかし、再稼働反対という要求は「今ある原発を使うな!」というもので、これはすでに原発という財産を持つ電力会社の自由を奪うものです。

いわば他人の財産をどぶに捨てろ、という要求に等しいものです。

 

原発はもともと国民の反対を押し切って建設されたものではありません。

1957年に茨城県東海村で日本発の原子炉「JRR1」が臨界に達したニュースに、敗戦後の国民は日本の技術力を誇りに思い、原子力による素晴らしい未来社会を夢見て拍手喝采したものです。

日本の原発は、この時の日本人の気持ちを汲んで建設されてきたものであり、いわば日本人の総意に基づいたものです。

その後に原発の安全神話が作られ正しい知識から国民の目をはぐらかせたのは、誠に残念な事であり政治家の責任でもあります。

 

福島第一原発の事故で原子力の怖さがわかったから、これからは原発の無い日本社会を望むという気持ちは理解できます。

それなら、過去50年以上かけて作られてきた原子力依存のエネルギー体系を、今後50年かけて他のエネルギーに置き換える議論をするべきです。

 

最も危惧することは、エネルギーと経済学の知識を持たないで言いだされた感情的な意見が、いかにも正しいことのように広まっていくことです。

原発を再稼働しなければ日本の経済が行き詰ること、太陽光発電はどんなに頑張っても原発一基分しか発電できないことが、理解されているでしょうか?

地球温暖化防止のため、2020年までに排出炭素量を25%削減する国際公約は、原発無くして達成できないことは理解されているでしょうか?

現状は原発の代わりに化石燃料をどんどん燃焼させていますが、地球温暖化で将来の異常気象を招くことと果たしてどちらが危険なのでしょうか?

 

全体像を見ないで一部の問題から解決策を求め、それをインターネットを使って広めていくことには、ポピュリズムの危険性が生じます。

現に枝野経産相のように選挙を意識する政治家は、いかにも国民の味方のように装って会見し、国の方向性を定める考えを持つ大臣らしい振る舞いが見られません。

 

かく言う筆者は、大学で原子物理学を学び大学院で環境経済学を専攻し、その後福島原発の設計にもかかわったものの今はしがらみが無いからこそ、客観的な意見を述べることができます。

耳触りの良い一部の意見によって間違ったポピュリズムが形成されないよう、多くの皆様が正しい知識を持って現状を判断されることを望むばかりです。

Category: 社長ブログ
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